来客の前に部屋を
見回して、気づくこと
人が来る前に部屋を見回すと、散らかっているかどうかよりも先に、 置きっぱなしのものの多さが目につきます。 それをひととおり片づけたあとの部屋に足りないのは、たいてい、生きているものでした。

友人が来ることになった日の、午後。 いつもは気にしていないところに、急に目が行きます。
テーブルの上の郵便物。椅子の背にかけたままの上着。 充電ケーブルが床を横切っている。 片づける手はそれほどかからないのに、 片づけ終えた部屋を立ったまま見回すと、 今度は別のことが気になりはじめます。
片づいた部屋が、少し寂しく見える
ものがなくなると、部屋は広くなります。 広くなった代わりに、平らになる。 壁があって、床があって、家具がある。 それだけの空間になったとき、 きれいではあるけれど、人が住んでいる感じが薄いと思うことがありました。
ホテルの部屋に似ている、と言えばいいのかもしれません。 整っているのに、誰の部屋でもない。 来客に見せたいのはたぶんそこではなくて、 ここで日々が続いているという気配のほうでした。
その気配を作っているものを探すと、 たいてい、動いているものか、生きているものに行き当たります。 読みかけの本がテーブルに伏せてあること。 窓辺の器に、水が入っていること。 片づけで消してしまいがちなのは、むしろこちら側でした。
視線が止まる場所は、だいたい決まっている
人が部屋に入ってきたとき、どこを見るか。 自分が誰かの家に行ったときのことを思い返すと、 まず目に入るのは、入ってすぐの正面と、 座ったときに向かい合う面でした。 床に近いところは、意外と見ていません。
だから植物を置くなら、目の高さに近い場所になります。 本棚の隙間に、小さな緑を置くのがちょうどよかったのは、 本の背表紙が並ぶ面が、ほぼ視線の高さにあるからでした。 テーブルの端でもいい。棚の一段でもいい。 ただ、あちこちに散らすとかえって散漫になります。 一か所に決めて、そこだけに置く。
玄関を出るとき、植物に目をやる数秒があるように、 人が入ってくるときにも同じ数秒があります。 置き場所を考えるというのは、 その数秒に何を見せるかを考えることと、ほとんど同じでした。
当日にできることは、そう多くない
とはいえ、来客の当日に鉢を買ってきても、 その部屋のものにはまだなっていません。 買ってきたばかりの鉢は、どこか浮いて見える。 少なくとも数日、できれば一週間ほど置いてみて、 一度置き場所を変えてみるくらいの時間が要ります。 その間に、部屋の側が鉢を受け入れていくような感覚があります。
当日にできるのは、拭くことと、替えることの二つでした。 週末の掃除のついでに、葉を拭くという習慣があれば そもそも当日に慌てる必要はないのですが、 間が空いてしまった日は、濡らして固く絞った布で葉の表を一枚ずつ撫でます。 数分で終わります。それだけで、光の反射が変わります。
それから、器の水を新しくする。 透明な器は、水が濁っていると隠せません。 逆に言えば、替えたばかりの水は、それだけで清潔に見えます。 前日の夜か、当日の朝に一度。 人に見せるための世話というのは少し照れくさいのですが、 結局のところ、自分が見ても気持ちのいい状態になります。
片づけるのは、ものを減らす作業だと思っていました。減らしたあとに、何を残すかの話でもありました。
友人が来て、部屋を見回して、何も言わないこともあります。 それでいいのだと思っています。 気づかれるためではなく、 その部屋にいる時間が少しやわらかくなればいい。
人が帰ったあと、テーブルを拭きながら、 棚の一鉢がまだそこにあるのを見ます。 来客のために置いたはずのものが、 そのまま次の日からの景色になっていました。
Lamasiaの植物は、棚の一段にちょうど収まる大きさの、透明な器の水耕仕立てでお届けしています。
Lamasiaの植物を見る